昭和45年11月09日 朝の御理解



 御神訓 一、「大地の内に於て金乃神の大徳に漏るるところはなきことぞ。」

 大地の内に於て金乃神の大徳に漏るるところはなき事ぞと云う、その次のご地内をみだりに汚すなよと云う様な事も成ってくる訳ですね。私は今朝からここのところを頂かせて貰うて大地と云う事、ご地内大地、金乃神の大徳に漏るるところはなき事ぞと。何時だったか天地金乃神とこうこの頃は天地の事を天地金乃神と云う名称ですかねえ、で拝ませて貰う訳ですが、ここには金乃神と書いて有る。
 ここまで神様の事を頂いた事が有るんですけれども、「性は天地名は金乃神」金乃神と云う名称が非常に問題に成るんですがねえ。どう云うところにその天地の神様とだけに云わずに天地金乃神とそう呼ぶのかと云うてまあ色々な説がいわゆる勉強された方達に問題になるところなんです。でもこれは別に問題にすると云う程しのことではないとね、まあそう云う意味じゃないでしょうか。「性は天地名は金乃神」と。
 成程、大坪総一郎と云いますが大坪が性で名が総一郎と云った様なものだと、此処の所私は今日思わせて貰うのですけれども、天が有難う御座いますなら地は勿体のう御座いますと云うそんな感じが致しますね。天は有難う御座いますと云うて拝むなら地は勿体ないと云うて拝むものの様に思います。ね、限りなく恵に恵続けて下さるのが天であるならば、どう云うものでもそれを黙って受けて受け抜いて行って下さる。
 云うならどんなに汚いものでも黙って受けて行って下さる。しかもそれを浄土と化して行かれる働き、もう只只勿体ないと云うより他にないと、そう云う気がするですね。だから有難いなあと云う事と勿体ないと云う事がね、天地と金乃神そこにけじめがある様に思います。例えば私何時か言ったんですけどもね、菊栄会の方達、例えば繁雄さんでも正輝さんでも文男さんでもそうですけれども、私が繁雄さんに久保山さんちゅうたらなんか実感が伴わないね、なんか情が移らない感じがする。
 繁雄さんとか正輝さんとかさあ文男さんと言うた方がこうなんか情が通う様な気がする。ね、私共が金乃神様に対して、ね、ほんとに勿体ないと申し上げる内容がね、あの天地金乃神ひっくるめて有難い勿体ないと言うてしまうよりね、私は今日そんな気が致します。しかもその大徳に漏るる所はない事。もっと私は此処ん所をこんな風にも思います。ね、それこそ天真爛漫、天が華やかにおかげを恵続けて下さるのに対するその事をまあ桜の花の信心にするなら、金乃神の信心いわば大地の内にと仰る。
 大地の受け持つ場と云うのは、梅の花の信心と云う様に感じますね。私共の心の中にもやはりその天地が足ろうて行かなければならない。昨日、北野弥生さんが、高芝さんと一緒に参って見えまして。そこの障子を開けて入って来られる、途端に私が御心眼に頂いたのが。今のお手洗いのその前の花が、松を入れてあったでしょう。松の下にこう小菊が入れてありましたね、松の小枝がこう入れてあった。
 それが別に、あそこいきなりに、まあ投入れ風に入れてあったですけれども、まあかっこいいものとは思われませんでしたね。その松のね、松の下になんかこう止めと云うか剣山かなんか置いてあるなかりゃ出来ないと思われる様に松の枝をじつに感じを向きを変える所を頂いた。そしたら下の赤い小菊がそれにきちっとそれの根締めにしてあるんだなと別にその松と小菊の格好のいい感じの所を頂いた。
 それで此処に座ってお届けされますから私その事を今ねああたがおいでられてこう云う事を頂きましたよと、はあそれが先生あの、と云うてから話されるんですよ。先日から一番長女の公子さんと云う方が滅多に参って来ませんけれどもその日は昼も参って来て居った。また親子で参って来て晩の御祈念に。実は今日は公子が先生にお伺いがあるからと云うて又参って参りましたとこう云う。
 お母さんが他の子供達にもみんな自動車を買ってやってある訳ですね。長男は長男、妹達は妹達で一台づつ持ってるわけです。そしてその公子さんも自分が乗り回す車を一台買いたいとこう云う。まあ心の中ではそれこそお店のを使っても内では兄弟のをちょっと借りてもいいのにと思うたけれども言うて聞く人じゃないからと思うて、なら御神意を頂いて親先生が良かとお許しを頂くとなら買おう。
 ならもう早速電話しといて今晩行くと云う事になって先日から夜の内から参ってきた。そん時に自動車の具合いを色々云うてどれを買わせて頂こうか、まあ第一お許しを頂くかどうかと云うことをお伺いして。それはね許されるとか許されないとかじゃなくてああたが買いたいと云うのだからその買わせて頂くと云うことを願われたらよかろうと。同時に自分が乗り回すんだからやっぱり気分ように乗らにゃいけんから自分の一番好きな車を買われたらよかろうと私が申しました。
 只まあそん時にはお母さんと顔を見合わせてお許しを頂いたと云う様な風で下がられてそして御祈念御理解になる。御理解を頂いて居る内に素晴らしい今日は御理解を頂いた。皆さんああ云う御理解は分かって行きよんなさるとじゃろうかと云った様な話の中から帰りの車の中でお母さん、私は自動車を買うのを止めたと、なしあげ買う買うち言いよったとじゃけん、折角先生もあんたが良かとを買えち言いよんなさるけんで買ったらよかじゃないのと言うたらいいや私しゃ止めたと。
 ね、そしてねもう私は絶対明日からね、お母さんが言われる事には「はい」と言うことに決めた。晩が帳簿の方を受け持っているそうですから九時にも九時半にも毎晩なるそうです。ですから朝はゆっくり、もう朝も絶対七時に起きることに決めた。それからあれ以来あなた私がどう云う事を言うても私はそれを忘れとったがこの頃も何でも「はい、はい」ちゅうてから朝も早う起きてやってくれますし気が付かなかったらあのうこの頃公子がどうして変わったじゃろうかと思うごとそのおかげを頂いて居りますと。
 車も買わんごとなりましたと言うて、だから先生その事でしょうとこう言う。ね、自動車を成る程私が買ってやると言うとったものだからお母さん買うてやると言うとったじゃないかと、だから買うとこう云う訳なんです。その一点張り。だからそれでもこうと云うたって聞かぬからならお許しを頂いてお願いをしてからと云う所であった。所がです。まあ此処へ来るまで買うと決めて居った人が買わない事になりそれだけではなくてお母さんが言われる事にはもう絶対服従、とにかく「はい」と云う事に決めた。
 朝もこうして早起きする事にしたと。それをもう一週間もなりましょうか毎日それをこの頃実行して居りますとこう。毎日静子やら和子やらああして参りよるがあの人達は分かりよるじゃろうか、私はたまにしか参りよらんけれどもほんにおかげを頂いて有難いと云うてその云いよる。例えば私がほんの少しばかり向きを変えさせて頂いたら子供達の向きまで変わって来る、先生その事じゃないでしょうかと今朝はその事をお礼申し上げたいと思うて参ってきよったとこう云う。
 手洗いのいわゆる松そのものの向きを変えさせて頂いたら意地になっとる子供のいわゆる赤いその菊までがじっとこう云うならばお花の経験のある稽古したことのある人が入れる様にです、只無造作に入れて有るのじゃなくてきちっと決ってしもうとる。親が向きを本当に変えたら子供も向きを変えて来ると云うのである。ね、こう云う私は生き方こそ大地の信心だと思うね。言うて聞かせて分からせる、と云った様なものはなくて、とにかく親自身が向きを変えると云う事。
 「先生最近私はこれがお試しと云うとじゃろうかと、もうここ毎日のように色々ある人が進言して来てくれる人があります」と、私が今稽古事の一切を止めて居る。お謡とか小唄それからお茶とかお花とかと云う事でももう随分古いお友達で長い間そう云うお稽古を続けて居られるのをもう全部止めてしもうた。踊りの稽古なんかは、自分とこにああ云う立派な舞台と云うかね、稽古場をわざわざ造ってから。
 そして自分は止めておりますからもう人に提供だけ、自由にお使い下さいと、云う事で自分がもう一切のそう云う、稽古事とか楽しみ事と云った事から足を洗うた。云うならば、私の周囲のお付き合いのそれも、ハイクラスの人達ばかりがですね、もう寄り寄り話をしてはですどうも。綾部さんは金光さんにもう惚け仕舞うとるごとあるから。これはみんな親身に考えてやる人達が、何とか方法を講じなければ、今の調子で行くならば何でもかんでも、上げて仕舞うよと云う様なその話合いがあってる。
 そう云う話を毎日この頃聞きます。あんた程しの女子がその金光さんどん惚けちからと云う風にみんなが話合いをしよる。云うてその、所がその私の中にはね。そう云う事を聞きます程に合楽に懸けられる思いと云うか憧念心と云うかまそれに反発する心と云うか心の方が益々信心の方へ弾んでくる。誰が何と云うても是だけはと云う気持ちが強うなって来ると。云う様なことも云うて居られます。
 だから是をまお試しと云うのでしょうかと、それは成程私も親身につき合うて来た達ばかりどの人も。又私が信心して私の言う事を聞かせたりした方達ばっかり。だから向こうもそれを、例えば私の事を思えばこそ寄り寄り話をしたり、進言して下さろうとして居るのですから、それも最もだと聞かなければならない立場にあるのだけれども。この事だけは、まそう云う訳には行きませんとこう云うのである。
 正しく大地の信心だと思う。あちらがあの一番初めに御理解を頂かれたのが一年前「天真爛漫、地心水心」と云う御理解を頂かれた。何とはなしに天真とか爛漫とか云うものは持ち合わせて居られると云う感じ。それに只今申します様に、いわゆる梅の花の信心誰が何と云うても辛抱、子供達に言うて聞かせるならあの様に雄弁であんなさるですから、もうそりゃあ説得力も持って居られるし。
 言うて聞かせれば言うて聞かせて分からせきるだけの、云うならば雄弁にもの言わせることも出来られるのだけれどもね、とにかく言わずに黙って例えば子供達に、そんなら親先生にお伺いをしてみてお願いをしてからの事よと、自分の思いをそこに抑えてあると云う所、私は大地の信心だと思うですね。そう云う信心から私はその勿体ないと云う信心が、いよいよ本当なものに成って来る様に思うんです。
 有り難いなあ、何も言わずに只私が向きを変えさせて頂いただけで、ただ神様に身に余る様なことがあれば身に余る様なことを黙って祈っていく、願ってさえ行って居れば神様が言う事ぐらいのことことじゃない、教えるぐらいなことだけじゃない、こう云うおかげを頂いて勿体ないと云う事になるのです。私は今日どうでも大地の内に於て、金乃神の大徳に漏るるところは無きことぞと、どうでもその心の上にもその天地が足ろうて天地の信心が出来とりわけ。
 いわゆる私共の心の大地のいわゆる梅の花の信心とでも云おうか、泥の様な信心とでも云おうか、金光様の御信心は此処ん所を一つ自分のものにして行く。先日飯塚の安藤さんが今勤めて居られる病院の先生に言うて居られる様にですねえ、大体金光様の信心ちゃどう云う信心なのかと問われた時に、さあ咄嗟に、一言でで答える事が出来なかった。けれどもこう云う事を言わせて頂いたと云うて言うて居られます様にね、「金光様の御信心はまあ云うなら泥の様な信心ですよ」とね。
天の事を説いて来た宗教家は沢山ありますけれども大地の事をいわば有難いとして説いてきた宗教家はまあ皆無である、無いと云うていい位い、只ちょこちょこ出てきてもその大地そのものを神様として頂くと云った様な、教えは金光様の御信心だけだと、真そうであります。教祖御自身がいわゆるその大地に親しむ、泥に親しまれてのお百姓さんであり、その中から生まれて来た信心ですからまあ当然と云や当然でしょうけれども、そこに実意丁寧神信心と、云われる様な信心が生まれて来た。ね、
 まあ私共の様に大地にあんまり親しまない者でも段々おかげを頂いて参りまして、成行きを大切にさせて頂こうと云う事が合楽の云うならば、一つの筋金になって居る程しに、と云う事はこれはやっぱり大地の信心だとこう思うのです。それを一言にして云うとだから金光様の御信心は泥のような信心ですと云うていい。 とにかく大地がですね、黙って受けて受けて受け抜いて行って、しかもそれを葉土化して行く素晴らしいその泥になって行く。全ての物にそれを受けて与えて行くと云う性格が泥だ。
 だから金光様の御信心とはとにかく泥の様な信心ですと云うてお話をしたら、大変家庭の人間関係で悩んで居られるお爺さん72歳にもなられる先生だそうですが、もう本当に目に涙を溜めて、素晴らしい信心じゃのうと云うてその言わっしゃったと云うてからお届けして居られます。道理であんたが来てから看護婦さんと自分の奥さんとの間にもう大変板挟みになって何時も是以上痩せられんだろうと云う位にその為に痩せちゃるとじゃありますまいけれどももう煎餅のごとなって居られるごとある話ですね。
 病院の方へ行くとその来る人は若い十二、三の時からまあそこで育ってそして勉強して看護婦それから産婆の免許を取って何十年になられます。それにもう仕切って行かれるそういう実力を持って居られるのですから先生も頭が上がりなさらん。奥さんは後入りに子供さんを連れて見えて居られるらしいですからもう看護婦、婦長に負けちゃならんと云うあれでもう何時もやり合いの状態。
 それで安藤さんは両方からそれをその言われてね、何時もそこをほんとに両方の嫌な事柄を黙って受けて行くと云うのが。もう半年にもなられましょうかそこに勤められる様になって。黙って実際受けてそれを示して行かれよりますからねえ。どちらかちゃあちらも皆さんも知って居られますように大変口やかましい人ですよね。賑やかな方です。けどその安藤さんがそう云う事に限ってだけはそれを黙って受けて行かれて居るのをならその先生は見て居られる。
 たまたま婦長さんも居られん奥さんも居られない御飯を頂かれよるからそのお相手をしながら御神酒をちょっと上がられるそうですから相手に、まなって上げなければならないそうです。だからそう云う時にたまたまその話が出てからね、そう云う風に説明したと、金光様の信心は泥の様な信心ですと。黙って受けて行くと云う、私は本当に素晴らしい金光様の信心を一言にしてそのまあ言い表して居られると云う気が致します。
 そこでね、自分自身がそれが出来て居らなければ、そう云う言葉になって出て来ないです。自分自身がね、こちらの汚いものもこちらの嫌なものもです、黙って受けて行って居られると云うその事実がです、しかもそこから生まれて来る体験を、体験して行きよらなければ、成程金光様の信心は泥のよ様信心だなあ、こう云う信心さして頂いたら、黙っとってもこの様なおかげを受けられる。ね。受けられると云う事がです、いわゆる勿体ないなと云う事になって来る。
 大地の内に於て金乃神の大徳に漏るる所はない。ね、成程大徳に漏るる事はないと云う意味での、此処の私は今日は御理解ではなくてです、大地とか又は金乃神のと云う事の大徳についてですね、私共はそれを今日私はこの様に感じたと云う事を聞いて頂いたのです。本当に金光様の信心が何とはなしにですもう自分のものといわゆる親しまれると云うかね例えば秋永さんと云うよりもです、ね。文男さんと云うた方が何となしにこういわゆるぴったりしたものを感じると云う様にね。
いわゆる金乃神様と、ねその金乃神様の御信心をです私共が頂かせて貰う。天地を性にするなら名を金乃神と呼ばせて頂くと云う様な雰囲気と云うかそう云うまあ気持ちでね、天地を唱え金乃神を唱えさせて貰うと云うその天地金乃神と云うだけの中にでもそう云うう一つのまあ特別の情感を込めて天地金乃神が唱えられる様にありたい。「天真爛漫」いわば与えに与えきってござる天の信心を私共が大地のような信心。泥のような信心で受けて受けて受け抜かせて頂くと云うまあ実に素朴な泥の様な信心。
 なんと素朴な表現だと分かる。そう云う素朴なね、信心を私共は自分の身に付けて行きたい。そこから自分も育ち、だけではない自分の周辺までも清めて行けれると云う程しのおかげ、それを綾部さんの例をとりましたですね。親が向きを変えればちゃんと子供までが向きを変えてくれますと云う信心。そこに先生勿体ない事ですと云う事になって来る。どうぞ一ついよいよ有難いと云う事は勿論ですけれどもそれにもう一つ勿体ないと云う信心をね、いよいよ身に付けて行きたいと思いますね。
   どうぞ。